冬の旅路
タルヴィは歌声を聞いていた。その声と旋律はいつもタルヴィの内に眠っていて、一日のうちに何度か、強く意識することがあった。
たとえば目覚める間際。歌声は胸の奥の深いところで揺らめき、徐々にはっきりとしてくる。タルヴィはその歌を捉えようとして目を覚ます。
しかし目覚めてしまうと、もう聞こえない。あまりにも美しい余韻だけが漂っている。
タルヴィは身震いをして体を起こした。
部屋はいつもより明るく、窓辺に細く朝日が差し込んでいる。太陽が出ているのだ。
晴れの日は必ず、白雪と平原を走る。いつもは陰鬱な空が真っ直ぐに見られないほど明るくなって、平原は宝石のかけらを散りばめたように輝く。
白雪はもう起きて待っているだろう。いつだって彼は早起きだ。
タルヴィは急いで朝の支度を済ませ、道具箱にまとめている馬具を抱えた。
階段を駆け下り、通り過ぎざま、両親に行ってきますと投げかける。その勢いで、タルヴィは馬屋へ走った。
「おはよう、白雪」
目の前に立って名前を呼ぶと、白雪は優しく鼻面を押し付けてきた。
雪のように白いタルヴィの愛馬は、順番に馬具を重ねられる間、一度尻尾を揺らしたきりでとてもおとなしくしていた。白雪の穏やかさは、いつもタルヴィを安心させてくれる。
村の端までは並んで歩き、その先は飛び乗って雪の中を駆けた。
白雪は生まれたときから雪道の走り方を知っていた。雪に足を取られたことは一度もなく、他のどの馬よりも速く走る。優しい目をしているが、肉体は強靭で、意思は真っ直ぐに伸びていた。
タルヴィは強く手綱を握り、東へ向かって走る白雪の背に、伏せるようにして息を合わせた。
村の東には平原がある。雪が積もっている他はなにもなく、その先の山がよく見えた。
タルヴィは白雪と、その山を目指している。正確には、その山の影を。
山の影は太陽が昇るにつれて短くなっていく。影が山の向こうに消えてしまう前に、一度追いついてみたかった。なにかをつかまえられそうな気がしていた。
三年前だった。村で一人の老人が亡くなった。
タルヴィの暮らす村で唯一、四季を知る人物だった。
老人は、時折タルヴィに語って聞かせた。雪のない大地や、凍えることのない夜があったこと。
さまざまな色が踊る、花の季節。青い空と、大きな白い雲の季節。実り多き、恵の季節。そして今の毎日のような、白と灰色の季節。その四つが順繰り巡っていたのだと。
それは、タルヴィには思い描くことのできない景色だった。
タルヴィがうつむくと、その頭に冷たい手のひらを乗せ、髪がくしゃくしゃになるまで撫でた。そうして、じっと窓の向こうを見つめた。あの山があった。
白雪は雪を蹴立てて走っている。ぶれることなく。
追いつきそうだ。
届きそうだ。
タルヴィは白雪の背に深く伏せ、白雪は全身の筋肉を躍動させる。
白雪が大きく跳ね、タルヴィは、白雪と共に影の中に飛び込んだ。
その刹那だ。
強く、風が巻いた。
とっさに目を閉じた。白雪が四肢に力を込めているのが分かる。渦の中心にいるようだ。
身を硬くして、息を詰める。
しかし、風は少しの余韻も残さず消えた。耐え忍んだ時間に見合わないほど。
呆然と空を見上げた。太陽はもう中天にさしかかっている。気が付けば、白雪もタルヴィも、影の外にいた。
不意にめまいがして、タルヴィは目元を押さえた。近くから、遠くから、歌声が聞こえる。目をつぶって、帽子の上から耳を覆った。ぐらぐらする。頭の中で、胸の底で、耳元で、近くで、遠くで、歌声が響いている。
声と旋律が、タルヴィを翻弄した。
・・・
闇の中で、歌声は静かだった。闇の底へ意識を縫い付けて、タルヴィは随分長い間、その歌を聴いていた。
いつしか歌は意味を成し、タルヴィはそれを明確にとらえると、意識を浮かび上がらせた。
母の叫ぶ声が聞こえた。父が呻くのが聞こえた。
見上げると、二人とも眉を寄せている。母は涙ぐんでいた。
父が話すには、タルヴィは三日前の夕方、白雪と共に帰ってきたらしい。白雪の背にぐったりと倒れかかって、気を失っていたという。
なにか温かいものをと立ち上がった母を、タルヴィは止める。
「もう少し休むよ。だから、二人も休んで。そばにいてくれて、ありがとう」
両親の目の下にはくまが色濃くあり、ずっと見守っていてくれたのだと分かった。タルヴィが目をつぶると、母が毛布を首元まで引き上げてくれた。優しい手が、胸に置かれる。父の心配そうな視線は、目を閉じていても感じられた。
ごく静かに戸が閉まり、二人が階段を降りていく。その足音を聞きながら、タルヴィはもう一度、ありがとうと呟いた。小さく、ごめんなさいとも。
これからタルヴィがすることは、二人を深く悲しませるだろう。
家の中が静まり返り、しんとした夜の気配が満ちると、タルヴィはそっと馬屋に向かった。
白雪は馬具をつけたままだった。それでも、タルヴィが目の前に立つと、いつものように優しく鼻面を押し付けてくる。
首筋を撫で、抱き締めた。
「もう一度、一緒にきてくれるかい」
白雪は人間がそうするように、穏やかな目で一度、まばたきをした。
白雪の背に伏せ、暗闇の中を無心に駆けた。もう一度、山まで。
・・・
吹き付けるように、乾いた雪が降っている。風はひどく冷たいが、あのときのように渦巻いてはいない。
山に入る手前で少し休憩をし、白雪の首筋を撫でた。
雪をかぶった木々が時折、その肩の荷を降ろす。
黙々と登る。導くのは歌声だ。
やがて見つけた洞窟で、タルヴィは歌う頭骨に出会った。それは凍りつきながら、冬の旋律を紡いでいる。
そばには一人分の、体の骨もあった。石で穴を掘り、埋葬する。胸に手をあてて、タルヴィは深くこうべを垂れた。
氷の頭骨を抱き、白雪の背に戻る。
歌声と共に、歩き始めた。
氷の頭骨が溶けて消える頃、歌を受け継ぎ、タルヴィの頭骨は凍るだろう。
いつかくるそのときまで、冬を、運ぼう。