星読みと弟 ...01

 鋭く三回、まどろみの縁を打つ音がした。
 それを現実のノックの音だと認識するより先に、ヤンは毛布を跳ね除けて構えている。じっとドアを見据え向こうを窺う間、ノックは休まることなく続いていた。
「誰?」
 低く問う。まだ夜明けには遠く、家の中にも冷え冷えとした空気が染み入っている。
 ヤンの声が届くと、真夜中の訪問者はすぐさまドアを打つ手を止めた。張り詰めていた空気が急速に緩んでいく。どこかほっとしたような気配がした。
「神殿の者でございます」
 今度はヤンが緊張に体を強張らせた。
 山の上の神殿には兄がいる。
 ドアを開け、闇に溶け込む黒いローブの男に向かい合った。
「兄さんに何かあったのか?」
 尋ねてはみたものの、ほとんど確信していた。規則を重んじる神殿の人間がこんな時間にやってきたのだ。神殿では、ちょうど今頃が儀式の時ではなかったか。
 フードを頭の後ろに下ろして、男が見つめてくる。さらされた顔はヤンのよく知っている人物のものだった。
「ヨゼフさん!」
 小さな頃そうしたように、ヨゼフはヤンをぎゅっと抱き締めてきた。ヨゼフは兄の世話係で、ヤンのことも同じように可愛がってくれた。
 抱きしめ返した体は昔と変わらずがっしりとして逞しく、衰えを感じさせない。顔には皺が幾筋か彫り込まれたように走っていたが、これも貫録だと言えばそれでとおる。
 しかし、ヨゼフはどこか様子がおかしかった。ヤンを離そうとせず、何かを堪えるように腕に力を込めている。
「なあ、どうしたんだ? 俺はここにいるよ。何もない。大丈夫」
 ヤンの言葉を噛み締めるように何度も頷いてから、ヨゼフはようやく抱擁を解いた。
「あなたは変わりませんね、ヤン様。勘がいいと言いますか……」
「あなたは少し変わったんじゃないか。例えば、涙もろくなったとか」
 ヨゼフの目元は少し濡れている。ヤンの無事を喜んでのものだろう。しかし、何をそんなにも案じていたのか、それを聞かなくてはならない。
「中、入って。話を聞かせてくれ」
「いいえ。それは道中お話します。私はあなたを見て安心しましたが、あなたは話を聞いても不安を煽られるだけでしょう。一刻も早く、イェジ様にお会いになりたくなるはずです」
 それだけで十分、不安が増した。

     ・・・

 神殿へ続く山道の入り口に立って、ヤンは高い音の口笛を吹いた。口笛は夜のしじまに鋭く刺さり、やがて一つの羽ばたきを呼んでくる。
 それは近くの木の枝に舞い降りて、問いかけるように首を傾げた。大きな真っ白のフクロウだ。
 雪白(ゆきじろ)とフクロウに呼びかける。
「神殿に向かうから、先に行って待っていてくれ」
 人が頷くように、フクロウは低く鳴いて飛び立っていった。
 音を立てない雪白の羽ばたきを追うように、二人は歩き出す。
「あの時の雛ですか?」
 ヤンは頷いて、雪白の消えた夜の暗がりを見上げた。
「そう。立派になったでしょう?」
 雪白を見つけたのは世界が白に埋め尽くされた朝だった。眩しく輝く雪の中、木の下に一点だけ赤が落ちていた。
 朝からヤンとイェジ、そしてヨゼフの三人で散歩をしていた。イェジがいつもと違う道を行こうと、ヤンとヨゼフの手を引っ張らなかったら、きっと雪白は凍えて死んでいただろう。
「もしかしたら、兄さんには分かっていたのかな。雪白がああやって元気に羽ばたくところ」
「イェジ様なら、あるいはそうだったかもしれませんね」
 頷いたヨゼフの声は沈痛だった。
 山頂目指して歩みを進めながら、ヤンは兄の様子を聞いた。

 曰く。
 部分的な記憶喪失に陥っていると。
 それも、イェジから抜け落ちているのはヤンに関することだけ。
 公私を混同する人ではないから、長らく誰も気付かなかった。
 しかし前兆はあったのだ。
 イェジは休憩の時間や勤めを終えてから、よくヤンのことを話題にしていたという。
『そろそろ下の村ではベリーの季節だね。ヤンはベリーのジャムが好きなんだよ』
『フクロウの鳴き声がする。ヤンと雪白は仲良くしているだろうか』
 そして何より、『元気にしているだろうか』と。
 それがいつの間にかなくなっていた。
 ふと、仕えの者の方が尋ねたくなり、ヤンの話題を持ち出したところ、返ってきたのがこんな言葉だった。
『君の知り合いかい? 長く会っていないの?』

「最初は悪い冗談だろうかと思ったのですが……」
 ヨゼフの声には困惑の色が濃い。
「兄さんはそういう冗談は言わない人だよ」
 おそらく、ヨゼフだって何度も否定しただろう考えを、ヤンはもっときっぱり切り捨てた。そもそも、イェジは嘘や冗談が下手だ。
「あなたは俺を心配して、様子を見にきてくれたんだね」
 ヨゼフは頷く。
 今一度、安堵の溜め息が聞こえた。そして今度は神殿に意識を向けたようだった。
 お互いに黙々と、出来得る限りの慎重さと速さでもって、険しい山を登っていく。

- 2015.12.12
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