狼と森の番人 ...02

 森には道がなかった。少なくとも、人が使う道はない。
 町へ出るためには下草をかき分け、枝をくぐって進まなくてはならなかった。
 ベリーの低木が集中している辺りは、傷付けてしまわないよう回り込んで歩く。季節がくると、ここには様々な種類のベリーが実る。摘んでそのまま食べることもあるし、ジャムに加工することもある。単調な暮らしに彩りを添えてくれる貴重な存在だった。
 しかし、今は初冬。森は色をなくしている。まだ積もりこそしないが、雪がちらつく日も少なくない。もうじき、森は雪の白と静寂の中に埋もれてしまうだろう。
 冬はいっそ好ましかった。
 冬の間は、森の中の小さな小屋だけが、自分の世界の全てになる。そこには暖炉があって、あたたかい食べ物を作ることができる。エルフィンが暖炉のちょっと脇に自分の居場所を作って、ときどき興味深そうにこちらを見る。それだけで十分だった。
 それでも、町との関係を絶つわけにはいかない。繋がりが消えてしまえば、セイジが森にいる意味もなくなる。そこに意味がなくなれば、セイジが存在する意味もなくなる。
 セイジは、町から森へ捧げられた生け贄だった。

     ・・・

 町へ一歩踏み出すと、背後で森がざわめいた。
 木の幹は身をよじり、枝がまるで腕のようにセイジの背に向かって伸ばされる。
 魔物なのだと、セイジは思う。森は広がり続けるのだ。最初は贄を求めて。その次は贄を逃すまいと。
 森は感情を持っているのかもしれない。セイジに追いすがる腕には、怒りか、悲しみのような揺らめきがあった。

 真っ直ぐに雑貨屋を目指す。途中、すれ違う人々がセイジを見て、そして森へ向かって目を細めては、納得したように頷いていく。露骨に身震いをする者もいた。
 扉を押し開けると、取り付けられた小さな鐘が、小さな音を立てる。奥から店主の声がした。
 特別愛想がいいわけでも、悪いわけでもない。平坦な声だった。
 セイジは何も応えず、店内を見て回るわけでもなく、カウンターへ向かう。店主はまだ若い男で、セイジを見ると一つ頷いた。
「いつもの品なら用意してあるよ。他に入り用なものはあるかい」
 セイジは首を横に振る。
 森へ捧げられた生け贄は、森の番人、あるいは、森番と呼ばれる。森番は個人の資金を持たないが、森で暮らすための道具や物品を無償で与えられた。
 男が奥から紙袋を幾つか取り出し、カウンターの上に並べる。
「いつものように、大きいのが食品類、中くらいのが生活雑貨、ちっこいのは道具類だ」
 中身を確認するかと聞かれ、断った。この店とは長い付き合いだが、誤魔化されたことは一度もない。
 店主は頷き、少しの間を置いて、奇妙な唸り声を上げた。この男も災難だと、セイジはどこか遠くで思う。
 決心したように、店主の男は顔を上げた。セイジはその瞳に視線を合わせる。
 男が魅入られたように、怯えたように、喉を鳴らした。セイジがまばたきをすると、店主は飲み込んでいたらしい息を吐き出す。森番を騙る者など現れないと思うのだが、この店の主人は確認を怠らなかった。商売だからと、いつか聞いたような気がする。
 ばつが悪そうに頭をかいて、カウンターの紙袋を押し出してきた。セイジはそれを受け取り、店主が開けてくれた扉から外に出る。
「昔の人はさ、どうしてあんた一人に押し付けたんだろうな。森のお相手」
「私が適任だったからですよ、たまたま。それに、一人ではありません」
「……そうだったな」
 同情のような色が、店主の瞳に浮かぶ。視線を合わせないよう目を伏せて、セイジは森へ戻った。
 セイジの瞳には森が住む。えも言われぬ緑の重なりだった。

- 2016.01.16
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